概要
プロローグ:曜、幼い日の思い出
浦の星女学院、ある日の昼下がり。
渡辺曜は、教室の窓辺から見下ろす海を指さしながら、転校生の桜内梨子に、夢見心地に思い出話を語る。
渡辺曜「梨子ちゃん、信じてもらえるかな?私がちっちゃかった頃、浦の星女学院から見下ろす入江にね。
ほら、あのへん。
あそこにね、白い、すてきな船が浮かんでいたんだよ―――」
西浦の女王、スカンジナビア号
沼津市西浦にある、沼津市立長井崎中学校から見下ろす入り江には、今から10年前の2006年まで、豪華客船が係留されていました。
その名を「スカンジナビア号」といいます。
海に浮かぶホテル・レストラン(西武グループの伊豆箱根鉄道所有)として使われていました。
まるで浦の星女学院の学園艦ずら
スカンジナビア号、あと10年持ってくれれば……アニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」に出てきたずらー、ねぇ。特に曜ちゃんがらみで。
googleEarth:2002年12月
(写真:スカンジナビア資料館 所蔵)
あった場所(行き方)
スカンジナビア号の来歴
誕生、ステラポラリス
スカンジナビア号は、始まりの名前を「ステラポラリス」といいます。
生まれは、1926年、ノルウェー。今から90年前のことです。
「STELLA POLARIS(ステラポラリス)」とは、北極星のこと。
ステラポラリスは豪華客船です。
ノルウェーのベルゲンライン社が、スウェーデン(イエーテボリ)のイェータ・ヴェルゲン造船所に発注し、純粋なクルーズ専用の客船(※当時の客船は映画「タイタニック」にも見られるように一般客や貨物を載せるのが普通)として、贅を凝らしたしつらえに造らせました。
19世紀の蒸気帆走船、あるいは前後にマストが立つヨットを思わすシュッとした白いシルエットは「世界の海の白い女王」「Royal Yacht(王室のヨット)」と讃えられました。
◎在りし日のステラポラリスの写真をアップしているサイト(リンク先参照:英語)がありましたので、そちらもご覧ください
諸元
起工/ |
1926年11月/ |
---|---|
形状 |
クリッパー・バウ型 |
総トン数 |
5,105トン |
速力 |
14.75ノット |
全長/ |
127.0m/ |
エンジン |
バーマイスター&ウェイン社製 |
「世界の海の白い女王」の船旅と、時代の荒波
ステラポラリスは就航後、地中海クルーズやバルト海、北海、西インド諸島や南太平洋、またニューヨークを出港してパナマ運河を超えて太平洋、インド洋、喜望峰をまわって英サウザンプトンまで行くワールドツアーなど周遊し、多くの富裕な客達を楽しませました。
戦間期の1930年台を代表する客船とも言われます。
1940年。事態が急変、ステラポラリスの運命に、電撃走る…!
第二次世界大戦が勃発し、ドイツはノルウェーにも侵攻します。
ドイツ軍に接収されたステラポラリスは、ノルウェーのナルヴィク港に係留され、Uボートの士官クラブとして利用されました。
また戦時に合わせ、白い船体は灰色に塗られてしまいました。
しかし結果的に、多くの商船が軍に徴用されたり通商破壊の標的になったりして沈む中、係留され航海に出なかったステラポラリスは、生き延びることができたのです。
戦後、ステラポラリスはもとの豪華客船に修復され復活しました。その後スウェーデンのクリッパー・ライン社に売却され、再び大洋を旅し「世界の海の白い女王」と謳われます。
しかし、1960年台初めに相次いだ船舶火災に端を発した「海上における人命の安全のための国際条約(SOLAS)」の一部改正(SOLAS69)により、建造後30年を経過した客船は、防火基準を満たさなければ米国の港に入国できなくなります。
ドル箱の文字通り、富裕な米国人の利用者が多かったステラポラリスの運用は難しくなり、またクリッパー・ライン社には、多額の費用をかけてまで古い船を基準を満たすよう改修する程の余裕はなく、同社はステラポラリスの運用を終えることを決めました。
日本へ
1969年、伊豆箱根鉄道がステラポラリスを購入。
余談ですが伊豆箱根鉄道がクリッパー・ライン社から直に購入したわけでなくて、外国車のディーラーで知られる(株)ヤナセの子会社を通じての購入だったそうです。
(株)ヤナセのHPや社史によると、フランク榊原というリゾート開発を手掛ける青年にプレゼンされた、古い客船を使用した海上ホテルというアイディアにビジネス的な魅力を感じた(株)ヤナセの梁瀬次郎社長(当時)が、ステラポラリスに魅せられ購入。ヤナセの子会社「(株)インターナショナルハウス」を通じて、伊豆箱根鉄道(梁瀬社長と親交のあった、西武グループの堤義明氏が社長をしていた)に転売したそうです。
梁瀬次郎社長の回顧録によれば、購入にあたり梁瀬社長は、西武グループの堤義明氏や建築家の黒川紀章氏の協力を得て渡欧します。スウェーデンのクリッパー・ライン社社長のところに直談判に行き、ステラポラリスの食堂にて交渉。昼食後の歓談時にピアノを弾きあって意気投合して、ライバルの3分の1の価格の、100万ドルで契約にこぎつけたそうな。なお、このとき弾いたのは当時外国でも知られ始めていた「スキヤキ・ソング(坂本九ちゃんの「上を向いて歩こう」)」。
当初、梁瀬社長は大阪万博(1970年)の見物客のために、大阪湾にステラポラリスを浮かべて安価なホテルとして提供するつもりであったそうですが、航行の妨げになるということで許可が出ず、これは実現しなかったとか。
(『轍:日本自動車史のあゆみとヤナセ』第4巻 梁瀬次郎 著(1986年3月31日発行),p100-p104)
さて。
無事に日本に回航されたステラポラリスは、沼津市西浦木負(きしょう)にスクリューを外して繋留され、日本初の海に浮かぶ高級ホテルになりました。
売却にあたりクリッパー・ライン社が出した条件は3つ。
1.船体の原型の維持
2.ステラポラリスのエンブレムの不使用
3.ステラポラリスの名称の不使用
そのためステラポラリスは名を改めることになり、「フローティングホテル・スカンジナビア」となったのでした。
「フローティングホテル・スカンジナビア」は、1970年7月25日に開業。ホテルでの宿泊や結婚式、レストランが評判を呼び、人気を集めました。
(管理人も小さい頃、最盛期に1回乗船したことがあるだよ。白い船の差し色の群青色、飴色のウッドデッキが印象に残ってるだよ。)
さよならスカンジナビア号
90年には10億3千万円の売上を記録したスカンジナビア号でしたが、華々しい時代は過ぎゆきます。バブル崩壊後は経営が低迷し、1999年にはホテルを閉鎖してレストランのみの営業になりました。
さらに船体老朽化に伴う維持管理費もかさみ、西武グループの経営見直しの中、伊豆箱根鉄道は2005年3月31日を以ってのスカンジナビア号営業終了を決定します。
営業を止めた後の身の振り方は難航し、そのまま地元に残すことを希望する声もありましたが、翌2006年、伊豆箱根鉄道は結局、ペトロ・ファースト社(スウェーデン)への売却を決定しました。船は上海に寄って修理し、スウェーデンに回航されることとなりました。
2006年8月31日の正午ちょうど。多くの人が見送る中、スカンジナビア号は出港し上海を目指します。
しかし・・・
出港して翌日の9月1日夜。スカンジナビア号は傾斜し、浸水が始まります。
浸水は止まらずついに、翌2日午前2時頃、和歌山県串本町潮岬西北西方の水深72mの海底(海上保安庁情報:33-26-59.6N 135-43-31.3E)にスカンジナビア号は沈没してしまいます。一晩のうちのことでした。
沈没後、スカンジナビア号の船体の一部は、近くの串本町にも漂着したそうです。
なお、水中探査会社「株式会社ウインディーネットワーク」による、沈没直後の調査では、船体は横転や破断することなく、そのまま着底したことが確認されました。
スカンジナビア(ステラポラリス)資料館
スカンジナビア号去りし後、乗り場があった場所はすっかり変わってしまいました。
現在は立派な邸宅が建っています。
その乗り場のあった場所の隣り。
かつてのスカンジナビア号を偲ぶ品々を展示しているのが、シーサイドカフェ「海のステージ」さんの「スカンジナビア(ステラポラリス)資料館」です。
スカンジナビア号の銀食器や沈没後浮かんだ船のハッチ、模型など、また、貴重なステラポラリスの最後の航海日誌を、所蔵・展示しています。
聖地巡礼の休憩に、海のステージで一服してみてはいかがでしょうか。(西浦みかんヨーグルト!)
見上げた山の上には、浦の星女学院(…ではなく、沼津市立長井崎中学校)もありますよ。
おまけ情報
長井崎中学校
沼津市立長井崎中学校のHPにも、スカンジナビア号のことが地元の自慢でシンボルであったことが記されています。
スカンジナビア号の縁から、スカンジナビア号が去った翌年の2007年に、静岡県で開催された技能五輪(ユニバーサル技能五輪国際大会)の期間中、長井崎中学校はスカンジナビア号のふるさと(造船所)の国・スウェーデンの代表団を応援したそうです。
沼津港新鮮館
沼津港のマーケットモール「沼津みなと新鮮館」入ってすぐの左手に、ステラポラリス(スカンジナビア号)の模型が展示されています。
参考文献・HP
【ムック】
- シー・ドリーム vol.18―海へ 海はいつも変化する「海から訪ねるもうひとつのハワイ」 (KAZIムック) : 本 : Amazon.co.jp (2013-12-26発行)
(p42-p51 武田忠治「豪華客船<ステラポラリス>の物語」)
【HP】
- clipper line, mv stella polaris, cruise history, yacht | Cruising The Past
- 株式会社ヤナセ 公式HP「ヤナセの歴史」「社史『ヤナセ100年の轍』」
謝辞
撮影・webへのアップの許可をいただいた「海のステージ」様に、感謝申し上げます。
エピローグ:妄想が捗る
さて―――
Aqoursの渡辺曜ちゃんは高校2年生。
アニメ放映の2016年夏時点で17歳と仮定すると、スカンジナビア号が内浦に別れを告げたとき(2006年8月31日)、7歳。きゃわたん!
出港の餞に風船を空に飛ばした子どもたちの中に、曜ちゃんもいたのでしょう。
船を愛する彼女の心に、幼い日の夏休み最後の日のスカンジナビア号との別れは、きっと強く刻まれたに違いありません。
曜「―――スカンジナビア号みたいに……私、この学校をむざむざ沈めさせたりなんかしない……!」
梨子「曜ちゃん~、ねぇ。あのー。戻ってきて下さい……?千歌ちゃん助けてー?」
千歌「梨子ちゃんなにー?あ~。曜ちゃんのいつもの病気ね。
曜ちゃんはね、スカンジナビア号のことを思い出すと、恋する乙女になっちゃうのだ。しばらくしたら我にかえってくるーさー。
これはね、クルーザーと、帰ってくるさー、をかけていて~」
梨子「えー……(ううう、早く慣れるしかないのかなぁ)」
妄想を膨らませるのはとても楽しい、ずらぁ。
(管理人:ここまで書いたけどアニメに出るかは保証しません…何かのモデルになったらいーら??)